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​第1話 1章 かつては愛された怪物たち

 演習場に響く剣戟の音は大きさを増しながら、その後もしばらく続き、傾きかけた日差しとより濃さを増した青空が時間の経過を知らせていた。
 過熱していく二人の戦いに、いい加減そろそろ止めに入ろうかと、寄宿棟の窓から顔を覗かせ観戦する者も現れ始めたが、彼女たちの意を他所にその戦いはあっけなく終わりを迎えた。
「チェリエ、それにアルジェ。来客です……剣を下げて!」
 珍しく大声を上げて二人を止めたのは、他でもない。素早い動きで剣を振り続けるチェリエの上官であり、アルジェが再生の日から避け続けている父、シェイグである。
 血と汗、砂埃ですっかり汚れきった二人は、シェイグの制止の声に剣を振りかぶったまま、その動きを止めた。
 全身を巡る煮え滾った血液が、急激に冷えるのを感じ、アルジェは眩暈を起こす。明滅しながら回転する視界の向こうでチェリエの体が、人形の様に崩れるのが見えた。
「お恥ずかしいところを……」
「いや、素晴らしかったよ。こうして彼女らの剣技を見るのは子供の時以来だ」
「まさか……あの時の闘技大会をご覧になって?」
「ああ……」
 暗転する視界の中、かろうじて意識を保とうとアルジェはシェイグ達の会話に耳を傾けたが、それもやがては耳鳴りに苛まれ、いよいよ遠くなる。
 視力、聴力を奪われたアルジェに最後に残された感覚は全身を巡る冷たさ。それは、どこか懐かしい感覚で、アルジェはその冷たさの水底に溺れてしまいたいとさえ思った。聴こえなくなった、父たちの声ももう、どうでもいい。
 静寂。それはアルジェには何よりも心地よい、死際の感覚。
 しかし、そのまどろみの中から、いとも容易くアルジェを呼び戻す声が聴こえる。父の物ではない、朗らかな、男性の声。
「ねぇ、聴こえる?」
 その声と額に触れる温かさに意識は引き上げられ、ガクンと全身が感覚を取り戻す。水面の様に滲みながら光が差し込んだ目前の、柔らかな黄金色。
「意識はあるかい? アルジェ・エルレイス」
 ぐるぐると回っていた焦点がようやく合うとその青い空を背に、降り注ぐ光の様に金色の髪が揺れているのが見えた。
「あ、はい……」
 アルジェは息絶え絶えに唇を動かすが、体は痛みと疲労で地面に縫い付けられた様に動かない。返事をするのさえ億劫で、目の前の金糸の持ち主が誰かは解らないが、早く立ち去れと願わんばかりだった。
 その願いは届かず、金糸の奥から覗く、季節も過ぎ去ったな春の空の様な青い瞳がこちらをしげしげと眺めている事に気付かされるばかりで、居心地の悪さしか覚えないアルジェは再びその瞼を緩やかに閉じようとした。
 しかし、呼びかける声の主も一向に諦めようとはせず、次第にアルジェの心持ちが、鬱陶しいを通り越して腹立たしさに変わり始めた頃。思いもよらない言葉がアルジェに降り注ぐ。
「こうして見ると、普通の少女の様だね。とても、生き死にを繰り返す怪物には見えないな」
 仰向けのまま微動だにしないアルジェの傍らにしゃがみ込み、称賛とも侮辱とも取れる感想を彼女に浴びせ掛けるのは、ラウエル・エズヴァード・ゼオシフォン、その人だ。
「あの……」
 たまらず、アルジェが反論しようとしたが、ラウエルはお構いなしに続ける。
「驚いたよ。君、気を失ったと思ったら寝息を立ててるんだもの」
「な……!」
 驚きは声にならず、怒りと羞恥心でみるみる紅潮するアルジェの頬。それを見てラウエルはクスクスと笑う。彼の言葉で、昼食時にイーツとチェリエに同じ事を再三小馬鹿にされた事を思い出すと、たまらずアルジェはその場で上体を勢いよく起こして声を張り上げた。
「なによ! 揃いもそろって、人を馬鹿にして!」
 その声とほぼ同時に、パチンと軽快な音が演習場に響く。数歩ほど離れた場所で見てはいられないと顔を押さえてうなだれたシェイグが最後に目撃したのは、八つ当たりで勢い任せにラウエルの頬を引っ叩く愛娘の姿だった。
 生暖かい風がアルジェの金古美を揺らす。その傍らにしゃがみ込んでいたはずのラウエルは平手打ち一つで、体制を崩し、地面に両手両膝をついて転げていた。無論、そんな無様な姿を晒すことになるとは、まったく予期していなかったラウエルが、一瞬何が起きたのかと瞬きを数回して、唖然としていた。
 遠くで目を覚ましていたチェリエが眉根を寄せる。
「ラウエル殿下、お怪我は! アルジェ! お前はなんて事を……」
 駆け寄り、ラウエルの身を抱き起こそうとするシェイグが大声を上げる。普段は物静かな父が有に一年分程、声を張り上げているのを見て、アルジェはようやく事の重大さに気が付いた。背後から浴びせられたチェリエの罵倒が、更にそれを裏付ける。
「ラウエルって、まさか第二皇子様?」
「今は皇嗣だ! アルジェ、たった十日でまた命を失いたくないなら、今すぐ非礼を詫びてこい!」
 そう言ったチェリエの声は最後の方がひっくり返り、半ば悲鳴に近い。ラウエルがもしも、チェリエが見てきた、幾人かの暴君と呼ばれた者と同じならばアルジェの身には死よりも更に重い刑が科せられるだろう。
 今しがた、その名を呼び捨てた事に気が付いたアルジェは、はっと小さく息を吸い込むと口元を手で覆い隠す。しかし、少しの間をおいて、その視線をラウエルへ向ける。
 アルジェにもそれ相応の言い分があった。先に非礼な振る舞いを見せたのはラウエルの方ではないか。人の寝入りを邪魔して、まじまじと顔を眺めているなんて、と、シェイグとチェリエの非難で忘れかけていた怒りがふつふつと再びこみ上げてくる。
 シェイグの肩を借り、決して上等な品とは言えない様なズボンに付いた土ほこりを払うラウエル。アルジェはその姿をとらえると、踵を叩きつける様に地面を蹴り、詰め寄った。
「命拾いしたわね、皇子様! 平手じゃなかったらあなた、死んでたわ!」
 ラウエルの胸ぐら――リネンのシャツを掴み、その端正な鼻先に唾を吐きかけまいと、悪態を吐くアルジェ。
 これ以上の暴挙は許されないだろうと、シェイグが止めに入ろうとした。しかし、意外にも先に動いたのはラウエルだった。
 ささくれ一つない、土ほこりで少々汚れてしまったものの、爪の先まで磨かれた骨ばった手がアルジェの顎を掴み上げる。
「僕を殺す? なら、このまま口づけを交わせばいい。君たちの接吻は死を呼ぶんだろう?」
 静かな声だった。アルジェの唇にラウエルの吐息が触れる。その瞳には怒りも、薄っぺらな笑いも何もなく、雲一つ無い空と凪の湖の様にアルジェ自身の瞳が映りこみ反射しあっているだけだ。
 そのひと時は、アルジェにとって死の淵より静かで、それでいて自分の心音だけがうるさくなり響き、十日前に再び生を受けた実感を一拍事に体に刻み付けられているようであった。
 やがて、ゴクリとアルジェが乾いた喉を鳴らすと、ラウエルはそっとアルジェを開放し目尻を下げて笑う。
「からかってごめんね。最強の不死者がこんなに可愛いお嬢さんだと思わなかったから」
 クスクスと笑いながら、硬直するアルジェの手から自分のシャツを引きはがすラウエル。そして――アルジェの紅潮した頬にそっと小さな口づけを落とす。
「ダフニの娘に祝福を。おっと! 二度目は食らわないよ」
 よくある口説き文句を耳元で囁きながら、反射的に飛んできたアルジェの平手を掴みとる。皇族とはいえまったく武器を握った事が無いわけではない。動揺し、狙いも力加減も今一歩弱々しいアルジェの平手程度なら、容易く受けてかわせる。
 いよいよ気が動転したアルジェは、ラウエルを軽く突き飛ばすとその場から離れようと、脇目も振らず寄宿舎へと駆け出した。
 途中、正規軍の兵舎から戻ったヴァウラがすれ違いざまに驚く声を上げたのが聴こえたが、それも無視して階段を駆け上がると、自室に飛び込んで勢いよくその扉を閉める。
 疲れた。今日はもう、誰にも会いたくない。
 すっかり薄暗くなった部屋で、窓際だけが少し赤い日差しで彩られていた。

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