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​第1話 1章 かつては愛された怪物たち

 アルジェ・エルレイスは朝に弱い。
 日の光は、一番高いところから降り注ぐ頃に、丁度、彼女の部屋に差し込む。休養中や休暇の日、彼女は、その光でようやく目を覚ます事がしばしばあるのだ。
 季節は夏だったが、この日も彼女は薄手の毛布に包まり、すぐには起きようとしなかった。
 薄着でも過ごせるくらいの暖かさだが、その古びた金細工の様な前髪がかかる額に汗の一つも浮かべず、静かに規則的な寝息を立てている。その寝顔は、実に穏やかで、妙齢というには少々あどけなさが残る。
 そんなアルジェの寝顔から日の光を遮るように、一人の女性が窓辺に立ち、大きく溜息をつく。
 しかしながら、彼女はまったく目を覚ます様子が無い。このまま放って置けばおそらく日が沈んでも寝ているだろう。それも、明日の日が昇って沈むまでだ。いいや、それ以上、永久に目覚めないかもしれない。なにせもう十日はこの調子なのだ。
 溜息をつく女性――チェリエの眉間のしわが、短くきっちりと切りそろえられた黒髪の奥で更に深くなった。
 昨日まではさすがに体調を配慮して、優しく揺り起していたのだが、昨晩までの様子を見る限りそれももう、要らないだろうと判断したのだ。怠慢で起きてこないのなら叩き起こすまでだと、溜息で出し切った空気を肺に戻すように大きく息を吸った。
 そしてアルジェの耳たぶを人差し指の付け根と親指で思いっきり掴むと。
「いつまで寝ているんだ!」
 一言一句を、惰眠を貪るアルジェにきちんと聞こえる様に、耳元で言い放つ。
 すると、アルジェの体が急に跳ねあがり、獣の如く俊敏な動きを見せた。耳たぶを掴む手は跳ね除けられ、包まっていたはずの毛布がチェリエの方へ飛んでくる。
 視界を奪って、攻撃するつもりだったのだろう。寝台の上から側頭部を狙って、思い切り、蹴りが放たれたが、勿論チェリエも想定の内だった。アルジェの脚に蹴り飛ばされた毛布だけが、ばさりと床に落ちる。回避したチェリエはアルジェの背後へ回りこみ、そのまま寝台に押さえつけようと反撃を仕掛けた。
 身長こそチェリエの方が幾何かは高いが、ほとんど変わらない体格差や腕力を考えると、本来真っ向からの力比べではいい勝負である。しかし、そうなれば技と経験がものを言う。チェリエが左腕を掴み、不安定な寝台の上で立つ軸足を払うと、難なくアルジェは柔らかい敷布の上に倒れこむ。捲れ上がった寝巻きの裾からは、中身の無い鞘が装着された大腿と、飾り気の無い下着が覗いた。
「それだけ動けるなら、もう休暇は必要ないな」
 憎まれ口を叩くチェリエは、寝台に突っ伏すアルジェに馬乗りになると、その頭と、いつの間にか短刀が握られていた右手をそれぞれしっかり押さえつける。
 勝敗が決まった。二人の激しい取っ組み合いのせいで舞い上がったほこりが、窓から射し込む光に照らされながら漂っている。
 押さえつけられた金古美の色の頭を、いやいやと振り、ようやくアルジェが口を開いた。
「ん……もしかして、チェリエ?」
 その声は寝起きのせいか、いつにも増して気だるげである。拘束された腕と頭が解放されると四肢を目一杯伸ばし、更に間抜けな声を上げてあくびをする。
 先程までとは一転して、アルジェは緩慢な動きで半身を起こすと、長い髪がくしゃくしゃになるのも気にせず頭を掻き散らす。そして次に口を開いたのはさらに一回あくびをし、何か違和感があるのか左腕を数回、振り回した後の事。元より眠たげな垂れ目がゆっくりとまばたきをして、瞳の湖水色が見え隠れする頃だった。
「うーん……おはよう」
「何が早いんだ? 休養中とは言え、いくらなんでも寝過ぎだぞ」
 アルジェが目を覚ました事を確認したチェリエは、床に落ちた毛布を拾い、寝巻きの裾を正しながら起き上がるアルジェ目掛け放り投げる。アルジェはその毛布を上手く受け取ると、何か言いたげだったが、いそいそと畳み始めた。そして、もう一度伸びをして、寝巻きをたくし上げるとそれを脱ぎ捨て、質素なクロゼットへ向かった。
「なんだか体が痛い」
 少しばかり汗をかいた柔肌を晒したまま、首や肩を曲げ伸ばしする。よく見なければ解らないものの、細身の体は年頃の娘にしてはよく鍛えられていて、無駄な脂肪が一切見当たらない。その腕が、あまり中身の多くはないクロゼットを漁っている。
「ねぇチェリエ、今日はまだゆっくりしていてもいいのよね?」
 窓の外を、何を見るわけでもなく眺めていたチェリエにそう質問が投げかけられたが、彼女はあえて返事はしなかった。この期に及んで、まだ甘ったれた事を言い出すアルジェに少々腹が立ったのだ。
「じゃあ、これでいいかな」
 どうやら質問の意図は服選びの参考でしかなかったらしい。アルジェも自分から言い出した割には、返答など元より当てにはしていないのか、悩みもせずにクロゼットの右から三番目に吊るしてあった、ゆったりとした膝が隠れる丈のワンピースを取り出した。柔らかい白色の生地に夏の木々の様な色の襟が付いた、特に華美でも地味でもないものだ。気に入りの服なのだろうか、アルジェは意気揚々と肌着を着て、取り出したワンピースに袖を通し、腰まで伸びた髪を慣れた手つきで引き抜く。
 その、年相応の娘たる様子に、チェリエは先ほどまでの苛立ちもいつしか治まっていた。そして、アルジェが屋内で履く為のサンダルに足をかける頃にようやく声をかけた。
「顔を洗ったら食堂に降りてくるといい。ヴァウラが昼食の準備を始めているからな」
 チェリエは軽く手を振り、アルジェには目もくれず部屋を出る。昼食後の予定も教えてやろうと思ったが、その背後で「何で剣が?」と困惑しながら、無用心に放り出されていた両刃の短刀を眺めるアルジェが面白くて、彼女に気が付かれないように笑いを堪えるのが精一杯だった。

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© nalua

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