top of page

​第1話 1章 かつては愛された怪物たち

 ヴァウラが食堂を拝借して、飯支度をしているという事は、今日の昼からの予定には急ぐような案件が無い事を意味していた。もし、夕刻まで業務や訓練があるのなら、彼女が得意とする煮込み料理等を仕込むには到底時間が足りない。アルジェは寝ていて気が付かなかったが、今日は収容所全体が休業日なのだろう。
 アルジェが顔を洗うためにやってきた、湿気を抑える為に通気が良いはずの水場ですら、かすかに香辛料の香りが漂っている。その香りに反応して、ぐう、と鳴る腹を、彼女は情けなく思いながらも、睡眠と同様、生物としての基本的な欲求は抑えることはできそうにない。
 早いところ食事にありつきたいアルジェは並べて置いてあった木桶の一つを使い、水槽に貯められた湧き水を汲み取るとその水で顔をすすぎ、綿で織った布で軽く拭う。ついでに濡れてしまった髪も布で拭きながら、桶の底に少々残った水を排水枡に流す。そして、空になった桶を元の位置に置こうと思ったが、次に使う時使いやすいだろうと、水槽の縁に逆さに置いておくことにした。人が一人入れるほどの大きさの石材で造られた水槽では、澄んだ水がまだその水面を揺らしていたが、それが止まらないうちに、だいぶ水気の切れた前髪を梳きながら早々とアルジェは水場を後にし、長い廊下へ出た。
 水場と食堂は
、長い廊下を挟んで反対側である。幾つも並んだアーチ状の柱の合間から見える演習場を左手に眺めながら、アルジェはどこか温かみのある石床を蹴り進む。チェリエが設けたルールにより、月に一度念入りに拭き掃除をしている床にはほこりはほとんど見当たらないが、たしか明後日がその清掃日だったのを、唐突に思い出した。嫌だな、と思いつつも、そもそも、肉体が再生してから日の数えが今一つ曖昧なので、後でまとめてチェリエに確認を取る事にした。

 この収容所は、塀に囲まれたゼオシフォン帝国皇城の周辺施設の一つで、アルジェ達二十人程の不死者が暮らす寄宿棟と、日々の鍛錬を行う演習場、そして彼女達が兵士としての任の傍ら、正確な暦を管理し、またそれを一般の民に供与し、赤子の出生日から作物の収穫日といった様々な記録と保管を行う国家機関・歴官庁を主に構成した、主屋と呼ばれる建物が併設されている。寄宿棟のほとんどの雑事は自分らで行い、それを取り仕切っているのがチェリエだった。しかし、アルジェはそのチェリエの凝り固まったルールが今一つ好きになれなかった。
 廊下と同じく掃除の行き届いた洗濯室、階段、談話室などいくつかの部屋の前を横切り、食欲をそそる香辛料の香りがだいぶ近づく。やがてたどり着いた、並んだ部屋の中で最も大きな戸を押し開けると、その天上の高い広間には辿ってきた香りが充満していた。共用の食堂だが、色とりどりのステンドグラスから日が差し込む以外は、至って質素で、どこか寂しさを感じる。誰かが気を利かせて置いたらしい、少し萎びた小振りの一輪挿しがいくつかテーブルに飾られていたが、それがより物寂しさを強調している様な気さえした。
 二列並んだ、詰めれば二十人程が向かい合って腰を掛けられるほどの木製の長いテーブルにはチェリエと、もう一人幼い少年が一番厨房側の席で向かい合わせに座り談笑していたが、アルジェに気がつくと話を中断して席に着く様に促した。背もたれの無い椅子に腰を掛けると、少年がその煙るような紫の瞳を、いぶかしげに向けてきた。
「お姉ちゃん! もう体は大丈夫なの?」
「お腹が空いてること以外はね」
「冗談じゃない! 何日も起きてこないから、また死んじゃったかと思ったんだよ!」
「ふふ、イーツは心配性ね」
 蝋燭の灯の様なオレンジ色の頭を振り、少年は怒りを表現した様子だったが、その挙動が何だか愛らしく、アルジェは思わず笑ってしまった。そして、彼の柔らかい髪をふわりと撫でる。アルジェとこのイーツという少年との間に血の繋がりは無いものの、慕われている事に悪い気はせず彼が自身を姉と呼ぶのも許していた。顔を合わせてから、日は浅いもののアルジェにとっても少々年の離れた弟の様な存在になりつつあった。
「数日寝てるくらいじゃ私、死なないわ」
 アルジェが更に冗談を重ねると、不服だったのかイーツは文句を言いながら、まだ頭を撫でていたアルジェの手を振り払い、テーブルに突っ伏し顔だけ上げて頬を膨らませる。代わりに、その向いで頬杖をつき、姉弟のじゃれ合いを眺めていたチェリエが、口を開いた。その端正な顔立ちに、何故か少し意地の悪い笑みを浮かべている。
「確かにアルジェなら、戦場の真ん中で寝ていても死なないかもな」
 チェリエの笑顔から察するにおそらく悪口なのだが、アルジェはその意味が今一つ飲み込めなかった。しかし、隣ではイーツは今にも吹き出しそうに笑いを堪えている。
「でも、さっきはチェリエが勝ったんだよね?」
「一応はね。ただし、アルジェが本調子だったら解らなかったよ」
「さすがに、戦場は無理じゃない? その辺の酔っ払いや暴漢くらいなら撃退できるかもしれないけど」
 二人の会話の内容にアルジェは首を傾げたが、その首や腕が寝起きからどうにも痛むのはチェリエの仕業だったようだ。幼少期からの訓練の成果もあり、アルジェは眠っていても食事中でも、頭で考えるより先に戦闘に応じる癖が染み付いているのだが、その癖で起こしに来たチェリエと一悶着あった事をイーツがわざわざ嫌味を交えて説明し始めた。二人が笑い話にしていたのは少々腹立たしいが、更にこの後の展開が読めたので、無駄な抵抗ではあるが余計な事は言わない方がいいと考え、沈黙を守り通す事にした。本調子じゃないといえば、この何事にも厳しいチェリエが言い出すことは一つしかないだろう。
「アルジェ。昼食を済ませたら、手合わせをしよう。体が鈍っているだろう?」
「やっぱり?」
 思っていた通りの展開にアルジェは肩を落とすのも諦めた。チェリエの言う通り、軽い取っ組み合い程度で腕を捻ってしまう程、体が鈍っているようだ。おそらく受け身すらまともに取れなかったのだろう。
 手負いの状態ではあるが、軽傷ならすぐに回復してしまう体は食事が終わる頃には何の痛みもなくなるだろう。それよりも、起き抜けとは言えあっさり負けてしまった事実の方がアルジェには痛手だった。
「そうね……ああでも、チェリエは少し重たい剣を使うのはどう?」
「有利な条件がいいと? 随分と弱気じゃないか」
「まだ、私の斧が届いてないの。剣を扱うのは得意じゃないの、知ってるでしょう?」
 チェリエの剣の腕はこの国で一番と言っても過言ではない。対するアルジェは器用さに欠ける為、力で押し切ろうと、普段は柄の長い斧を愛用している。訓練試合とはいえ、剣と剣でまともに切りあってもアルジェの方が完全に分が悪いのである。しかし、アルジェが得意とする斧も国の正規軍が使用している物を少々、仕様を変えてもらっているので誂えるのに時間を要するのだ。
「それなら出来ているみたいよ」
 二人の会話に割り込んで、扉の無い隣の部屋から朗々とした声がかけられた。
「おまたせ。お腹空いたでしょう?」
 厨房から姿を現した声の持ち主は、両手で持った大きな鍋を三人が向かい合う長テーブルの真ん中に降ろす。白い湯気と香りを上げる鍋の中では、鶏の肉が骨の付いたままの姿で、根菜と共にたっぷりの香辛料で煮込まれていた。
「今、食器も持ってくるから」
 そう言って微笑む、長身の女性――ヴァウラは、一つに束ねた赤毛を揺らし再び厨房へ姿を消す。そして今度は、焼きたてのパンが入ったかごと、四人分の食器を、器用に全て一人で持ちながら戻ってきた。穀類が混ぜ込まれた焼きたてのパンにイーツが身を乗り出してはしゃぐ。
「わあ、ふかふか! おいしそう!」
「小麦は収穫したてのひきたて。香りが違うわよ」
 パンのかごを置き、三人に食器を手渡すヴァウラは自慢げに笑う。その笑顔は美人ではあるが、この帝国の皇后の様な手の届かないようなそれではなく、酒場を切り盛りする美人な町娘といった風だ。少なくともアルジェはそう思った。
「そんなもの、食糧庫にあったか?」
 ヴァウラからカトラリーを受け取り、鍋の中の鶏肉を器用に解体して皆の皿に取り分けながらチェリエが質問する。どうやらヴァウラは、管理者としてこの建物の事はほとんど熟知しているチェリエの目さえ掻い潜っているようだが、密偵や隠密的な任務こそが、この屈託なくカラカラと笑う彼女の最も得意とする分野であるのだから、それも至極当然である。チェリエもそれは心得ているはずなのだが、それでも、上官と部下ではなく、友人として気軽な会話を振ってしまいたくなるのが、ヴァウラの人柄なのだろう。
「一昨日だったかな? 正規軍の方から少しね。わざわざ届けてくれたの」
 彼女達不死者はその、たとえ火に巻かれようとも、首を刎ねられようとも、肉体が再生し生き返ってしまう、見ようによっては魔獣と大差ない異常性から、今のゼオシフォン帝国の上層部や正規軍からは嫌煙されている。しかし、その無限たる命がゼオシフォンという土地そのものに縛られている故に、嫌々ながらも帝国で管理せざるを得ないのだ。帝国に対する脅威になる事も考えられるだろう。
 しかし、それもここ数年の事だった。かつての皇帝はその力に心酔し、溺愛し、利用し尽くしてきたのだが、近年皇帝が代替わりしてから収容所は彼女達を隔離する為の存在と化し、あまり潤沢な維持費は貰えていないのが実情である。収容所を治めるシェイグ・エルレイスの存在やチェリエの尽力によって、帝国傘下の非正規軍、そして歴官庁という国家機関として何とか存続できている状態だった。
 要するに、不死者を飼い殺しにしたいというのが今のこの国の方針だった。
 だが、その一方で男所帯の正規軍と比べ、この収容所は不死者をはじめとする職員の大半が女性、しかも美人が多いという噂もあり、一部の酔狂な者達が便宜を図ってくれるのだ。ヴァウラはその中でも特に顔が効くらしい。
「さあ、冷めないうちに。どうぞ」
 ぱん、と手を打ち鳴らしヴァウラがチェリエの横に座りながら促す。アルジェはかごからパンを取り、半分に割って、片方をイーツに手渡した。形の残った麦などの穀物がきめ細かな生地の間から見え隠れしている。一方で料理を作った本人といえば、香辛料は何を使った、だの、鶏肉の下処理には水を使うな、だの、アルジェやイーツは勿論、博識なチェリエでさえ聞いてもよく解らない知識を連ねていた。三人とも黙ってうなずきながら食事を口に運んだが、しかし、そんな多くの解説など要らない味に、自然と感嘆の声が漏れる。
「おいしい! ぼく、鶏肉のパサパサした感じが苦手なんだけど、コレは食べれる!」
「イーツ……好き嫌いは良くないぞ」
「ヴァウラ、酒場の女将さんになれるんじゃない? 私、常連になろうかな」
 アルジェの賛辞はどことなく焦点があっていない様な気はしたが、それでも褒められて悪い気はしないのだろう。ヴァウラは照れくさそうに笑う。その笑顔を見て、アルジェはやはり酒場を切り盛りすれば繁盛しそうだと思った。
 そんなアルジェに、ヴァウラはこっそりと耳打ちをする。
「実はね……裏通りにあるタンポポの朝露亭ってお店で教えてもらったの。料理がとても美味しいのよ」
「その店、まだあるの?」
「あら、アルジェも行ったことがあるの?」
「その……フィーシャに教えてもらったの」
 フィーシャ。
 その名を口にする事で困惑したのは、誰でもないアルジェ自身だった。
「そうだったの? 私もフィーシャに教えてもらったのよ。素敵なお店よね……笛吹のおじ様が亡くなっちゃって、音楽座が解体しちゃったのは惜しい事だけど。フィーシャが踊ってるの、素敵だったなぁ」
 アルジェの戸惑いを他所に、思い出にふけり雑談を続けるヴァウラが言うには、店で演奏を催していた一座の座長が昨年亡くなったらしい。アルジェが最後にフィーシャと訪れた時ですら結構な年齢だったのだ。仕方の無い事だが、それでもアルジェは少しだけ悲しくなった。
 笛吹の事はよく覚えている。恰幅が良くて、伸ばした髪を一つにまとめ、鼻の下に短い髭を蓄えた人のよさそうな初老だ。麦酒が好きで、一気に飲み干す姿が印象的だった。各地の音楽や民謡に詳しくて、アルジェも自身の出身地であるプロデシアの歌は彼に教わったくらいだ。シャイタン達の民謡を演奏する時にはフィーシャが一緒に踊ってみせて、見る者達を楽しませていた。
 しかし。
 その、音楽に合わせ舞い踊るフィーシャの姿だけが、どうしても思い出せないのである。アルジェ自身の日記にも度々登場するのだが、どのような人物で、どのような声で、どのように風に自分に接していたかさえ。
「あの……フィーシャの事なんだけどね」
 真実を目の当たりにするのはこの上なく恐ろしかったが、それでも十年前の日記に綴られていたフィーシャに対する愛情の言葉を思うと、知らずにはいられなかった。
「思い出せないの」
 アルジェの告白に、三人の食事の手が止まった。

© nalua

bottom of page