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​第1話 1章 かつては愛された怪物たち

 四階建ての寄宿棟に比べると、半分しかないこの主屋はかなり見劣りする。一階の歴官庁窓口も、せいぜい二、三人の対応を同時にできる程度のカウンターがある程度で、片田舎の村役場以下だろう。
 香辛料の匂いは寄宿棟から渡り廊下をこえて、主屋の二階に設けられた小さな執務室で頭を抱えるシェイグ・エルレイスの元まで届いていた。
「まいったな……」
 溜息交じりのそれは、すっかり昼食時になっても処理しきれない書類の山に対してでも、ましてや空腹の為でもない、一枚の文書に向かって発せられた言葉だった。
 白髪が目立つ、柔らかな紅鳶色のくせ毛を掻き散らしながら、その文書の一言一句を何度も、夕刻の様な淡い紫色の瞳が追う。しかし、何度確認しても内容としては、何一つ間違いも、誤字脱字も、癖字などで読みにくい箇所もない、これ以上ないくらい正しい公的文書だ。
「やはり、問題だらけだ……まいったな」
 ただでさえ、問題を抱える彼を更に悩ませているその文書は、二日前に皇城からの伝達員によって届けられた一通の手紙だ。内容は、達筆で書かれた『明後日、収容所に赴く』といった簡潔なものだったが、その最後に綴られたラウエル・エズヴァード・ゼオシフォンという名に問題があった。それもそのはず、ラウエル・エズヴァード・ゼオシフォンと言えば、このゼオシフォン帝国を統治する皇帝の実弟であり、今はまだ、世継ぎの居ない現皇帝の身に何かあればその座に就く人物なのだから、いくら皇城施設の一つを任され、高官の地位を有するシェイグでも、おいそれとは目にかかれないのだ。軍部や医局の視察ならともかくとして、暦の記録と飼い殺し状態の不死者の管理しか行っていない収容所に、一体何の用があるというのだろうか。
「せめて要件さえ仰って下されば……」
 訳も解らず、時間も足りず、講じた措置と言えば、歴官庁の方は終日休業とし部外者の出入りを禁じた事と、職員――寄宿棟に住まう不死者、その他の通いの者問わずに休暇を与えた事くらいである。そのせいで、長官であるシェイグが処理しなければならない仕事が増えてしまったのは誤算だったが、とりあえず客人を迎える準備をせねばとシェイグは窓の方を見た。
 無造作に本が積まれた執務室は応接室も兼ねていて、直接、窓から日は射さないもの、晴れている日はかなり室温が上がる。自身一人なら特に気には止めないのだが、流石に来客時にこの温度は失礼に値するだろうと、シェイグは上げ下げ窓の下半分を開けようと手をかけた。しばらく動かしていなかった為、少々手こずりはしたが、それでもやっと窓が開いて清々しい夏の風が執務室に抜けると、自然と悩みも少しは晴れるような気がした。
 高く積まれた本に関しては、後でチェリエに怒られる事にしようと、腹に据えた。
「アルジェとも少々話をしなければなりませんね……」
 そう言って、少し肩の力を抜いた彼には、ラウエルの突然の訪問ですらかすんでしまう、非常に悩ましい問題があった。
 近年、ますますその母に似てきた愛娘、アルジェ・エルレイスの事である。
 不死者の中でも特別な事情を抱えるその娘は、アスピデールで魔獣と交戦し、刺し違え戦死した。それから十年の月日が経ち、やっとの思いで十日前に再生を果たしたのだが、どうにも最初に見舞いに訪れて以来はシェイグとは顔を合わせようとはしないのだ。
 本来ならば今年で三十歳になるアルジェのはずだが、生きている時間で言えば十六、七歳といったところだろう。普通の娘と同じく、思春期の様なものかとも思ったが、チェリエにそれとなしに聞いてみたところ、どうやら、そういう類のものでもない様子だ。現に、チェリエに対しては「父の様子はどうだ?」等と聞いているらしい。
 シェイグとしても様々な覚悟を決め、この異常な父娘関係を受け入れてアルジェと接してきたのだが、近頃ようやく気付いたのだ。異常性など関係ない。産んで母親になるのとは違い、父は育て導き初めて親になるのだ。アルジェが不死者である事も、兵卒として戦地に赴く事も、全て含めて正しく導いてやる事が、自分に科せられた親としての使命なのだと。その為に、この収容所を設立したのだ。彼女と、その同じ業を負った仲間達が安らげる家になればと願い。
「ああ、カーリン。アルジェを守ってくれないか」
 シェイグは今日で十二回目の溜息をつきながら、亡き妻と揃いの指輪に語り掛けた。目を閉じれば今でも鮮やかに彼女の姿を思い出した。褪せた金色の細い髪。プロデシアの雪景色に映える青い瞳。寒さに頬を染める柔らかな肌。
 窓の外でザワザワと揺らぐ木々が、彼女の代わりに返事をして居るかの様に思えた。
 そんなシェイグの愛情を知ってか知らずか、アルジェの態度は年々削減される収容所の予算より、ラウエルの訪問より、突然吹き込んだ風で崩れてしまった書類の山より何より、彼の悩み事となってしまうのだった。
 そうしてうんざりと、シェイグが散乱した書類に十三回目の溜息をつこうとしたその時だった。
 執務室の外、吹き抜けの廊下から物音がして、シェイグは反射的にその溜息と、書類へ伸ばしかけた手を止めた。代わりに、生唾を飲込む。
 ガランガランと、多少仰々しく鳴るのは正面玄関に取り付けられた、来客を示す鐘の音だ。どうやら、たった今第三位に落ち着いた悩みの種の到着である。
 慌ててシェイグは散らばった書類を適当に拾い集め、自身の執務机に大して揃えもせずに置いた。再び書類たちが風に飛ばされてしまっては面倒だと、窓は閉め、椅子の背もたれにかけられていた高官に与えられる群青色のガウンを手に取った。袖を通しながら、急いで部屋を出て来客者の元へ向かう。
 ギイギイと安普請な音を立てる螺旋階段は、主屋一階の歴官庁カウンターの脇に繋がりエントランスへと続く。歳のせいか、近頃低下しつつある視力でも、吹き抜けの先、そのエントランスに立つ人物ははっきりと認識できた。
 窓から射し込む光を受けきらめく金色の髪。背筋を伸ばし、凛と立つ姿勢が皇族たる風格を現していて、シェイグは思わず目がくらんだ。
 しかし、その恰好と言えば、柔らかく涼しげなリネンのシャツに深い緑のストールを軽く羽織った程度の、街の青年がどこか散歩にでも行くような衣服だった。
「はじめまして、シェイグ・エルレイス所長。お目にかかれて光栄です」
 あっけにとられているシェイグが一階へ到着するか否か、歓迎するより先に、先手を打たんとばかりに口を開いた来客者――ラウエル・エズヴァード・ゼオシフォンはこれまた、皇族らしからぬ素手を差し出し、握手を求める。
 その振る舞いにたじろぐシェイグの事など気にしてない様子で、春の晴天の様な青いまなざしが柔らかく弧を描いた。

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